扉の閉まる重い音。
そして静寂。 しばしヘラは戸口で立ち尽くしていたが、ややあっておずおずと寝台に歩み寄る。 アルバートは大丈夫とは言っていたが、相変わらずシエルは寝台に横たわったままで目を覚ます気配はない。 だが、その時唇がわずかに動いた。 「し……う……どうして……?」 「……アルトール殿?」 かすかな声に、ヘラは思わず耳をそばだてる。 「……どうして……助けたり……。……見捨てれば、こんなことには……」 「……アルトール殿? いかがなさいました?」 その声が届いたのだろうか。 不意に藍色の瞳が見開かれる。 驚いたヘラが飛びすさると同時にその腕に何かが当たり、ごとりという重い音をたてて床の上に落ちた。 あわててそれを拾い上げようとした彼女は、それが何であるかを理解して思わず表情をこわばらせる。 拾い上げたものは、鈍く銀色に光る短剣である。 何度も使われている物であろうことは、一応武人の端くれであるヘラには一目瞭然だった。 一方、いつの間にか起き上がりこちらを見つめてくる敵国の神官の顔には、どこか乾いた笑みが浮かんでいる。 「……父親の形見です。それでひと思いに突き殺してはくれませんか?」 ぞっとするようなその言葉に、けれどヘラは力無く頭を揺らす。 そして、わずかに鹿爪らしい表情を浮かべる。「……私は、トーループ将軍の副官です。主命以外に従うわけにはいきません」
震える手でヘラは短剣を握りしめる。 よく見ると剣の柄には、見慣れたエドナの紋章が刻まれていた。 「……アルトール殿、これは……? 貴方は……?」 ルウツの神官ではなかったのか。 けれど、やはり彼はその問いかけに答えようとはしなかった。 その代わりに、自嘲するような独白がその口からもれ聞こえてくる。 「無様だな、俺は。自分一人守ることも殺すこともできないで……」 丁重にその言葉騒動があった翌々日に、ロンドベルトが副官のヘラをはじめとするわずかな側近と共に、アレンタの主府へ向けて出立することが決まった。 つかの間の平和が訪れる、と言いたいところだったが、アルバートの心中は穏やかではなかった。 ロンドベルトが主府へおもむくということは、なにがしかの命令を携えて戻ってくるということを暗に示しており、その命令は十中八九出兵であることは明らかだったからだ。 そして何より、あのときのやり取りが頭の中にこびりついてはなれない。 ──お客人は、ルウツの大司祭猊下の養い子のようです── 墓地を前にしてのロンドベルトの言葉が、幾度となく脳裏によみがえる。 真実であれば、これまでの違和感にすべて説明がつく。 一方で、心のどこかで信じたくないという思いがある。 考えがまとまらず、アルバートは頭をかき回す。 その時だった。 「師団長殿、夜分に失礼いたします。よろしいですか?」 扉の外から聞こえてきた声が、アルバートを現実へと引き戻した。 どうぞと応じると開いた扉の向こうには、見知った顔の黒衣の兵士が立っていた。 「お休みのところ、申し訳ありません。本日宿直を拝命した者が、お客人の様子がおかしいと申しておりまして。来ていただけるとありがたいのですが」 「ご様子が?」 昼間の強引な尋問が、あの人に何やら影響をおよぼしたのだろうか。 不安を抱えつつも、アルバートは平服の上からマントを羽織ると、ランプを手に取り軍司令部の建物へと向かった。 ※ 暗い夜だった。 漆黒の闇に溶け込む黒衣の兵士を見失わないよう、細心の注意を払って進むことしばし。 ようやくたどり着いたその部屋の前で、アルバートは大きく息をつく。 扉の向こうからは、うめき声とも泣き声ともつかないものが、途切れ途切れに聞こえてきた。 「先刻は叫び声が。中をうかがったのですが、特に変わったことは何も」 そうですか、と見張りの兵にうなずいて見せてから、アルバ
眼前には、白い墓碑が無数に並んでいる。 その大部分が、中に眠る遺体のない空っぽの墓である。 一体何度同じことを繰り返せば、その馬鹿馬鹿しさに気づくのか。 そして、その片棒を自らも担いでいることに気づき、ロンドベルトは思わず苦笑を浮かべた。「ここにおられたのですか? 人の記憶に触れるのは禁忌だと何度も……」 背後から呆れと怒りが入り混じったような声が聞こえてきた。 やれやれとでも言うように、ロンドベルトはわずかに肩をすくめる。「あいにくと私は神官ではないので、その規範に従う義務はありません。違いますか? 師団長殿」 言いながら、ロンドベルトは振り向く。 果たしてそこには、怒りを隠しきれないアルバートが立っていた。「神官云々の問題ではありません。人道的に……」「戦場で無数の命を手にかけている私が、今更人道に背いても大したことはないでしょう。そうは思いませんか?」 二の句が継げず押し黙るアルバートに、ロンドベルトは皮肉めいた笑みを向ける。 真面目で実直なアルバートを言い負かすのは、ロンドベルトにとって造作もないことだった。「時に師団長殿、一つおたずねしたいことがあるのですが、よろしいですか?」「自分に、ですか? お答えできるかどうか」 アルバートにしては、いつになく素っ気ない返答である。 が、ロンドベルトはまったく意に介する様子もない。「他でもない、かの御仁のことです。率直に見て、どう思われます?」 なぜロンドベルトはこんなことを聞くのだろう。 疑問に思いながらも不承不承アルバートは返答する。「神官としての資質は、十二分にお持ちです。……ですが、少々違和感があるのは否めません」 光を持たないはずの黒玻璃の瞳が、一瞬輝いたような気がした。 一体ど
扉の閉まる重い音。 そして静寂。 しばしヘラは戸口で立ち尽くしていたが、ややあっておずおずと寝台に歩み寄る。 アルバートは大丈夫とは言っていたが、相変わらずシエルは寝台に横たわったままで目を覚ます気配はない。 だが、その時唇がわずかに動いた。 「し……う……どうして……?」 「……アルトール殿?」 かすかな声に、ヘラは思わず耳をそばだてる。 「……どうして……助けたり……。……見捨てれば、こんなことには……」 「……アルトール殿? いかがなさいました?」 その声が届いたのだろうか。 不意に藍色の瞳が見開かれる。 驚いたヘラが飛びすさると同時にその腕に何かが当たり、ごとりという重い音をたてて床の上に落ちた。 あわててそれを拾い上げようとした彼女は、それが何であるかを理解して思わず表情をこわばらせる。 拾い上げたものは、鈍く銀色に光る短剣である。 何度も使われている物であろうことは、一応武人の端くれであるヘラには一目瞭然だった。 一方、いつの間にか起き上がりこちらを見つめてくる敵国の神官の顔には、どこか乾いた笑みが浮かんでいる。 「……父親の形見です。それでひと思いに突き殺してはくれませんか?」 ぞっとするようなその言葉に、けれどヘラは力無く頭を揺らす。 そして、わずかに鹿爪らしい表情を浮かべる。「……私は、トーループ将軍の副官です。主命以外に従うわけにはいきません」 震える手でヘラは短剣を握りしめる。 よく見ると剣の柄には、見慣れたエドナの紋章が刻まれていた。 「……アルトール殿、これは……? 貴方は……?」 ルウツの神官ではなかったのか。 けれど、やはり彼はその問いかけに答えようとはしなかった。 その代わりに、自嘲するような独白がその口からもれ聞こえてくる。 「無様だな、俺は。自分一人守ることも殺すこともできないで……」 丁重にその言葉
「言葉で語っていただけないのなら、仕方がありません。貴方の記憶に直接うかがうしかないでしょう」 言葉と同時に、シエルはロンドベルトの思念が自らの脳裏に流れ込んでくるのを感じた。 常であれば弾き返すことはたやすいのだが、衰弱状態から完全に回復していない今、それに抗うことは不可能だった。 「嫌……だ……」 とぎれとぎれの声が、色を失った唇からもれる。 同時に、藍色の瞳から涙が一筋、こぼれ落ちた。 ※ そこに広がるのは、怒号が飛び交う血生臭い戦場だった。 振り返ると、背後には騎乗すらおぼつかないくすんだ金髪の青年の姿が見える。 青年の顔は蒼白で、その体は僅かに震えているようにも見えた。──気にするな。これは奴が勝手に選んだ道だ── だが、そんな青年を一瞥するなり『彼』は面白くなさそうに口を開く。 一片の感情も感じられない声が、その場に響いた。 ※ 「その方が、貴方をルウツへ繋ぎ止める存在ですか? もっと大きな存在がいらっしゃるのでしょう? 違いますか?」 ロンドベルトの問いかけに、だが彼は必死の抵抗を試みる。 しかし、黒玻璃の瞳に魅入られて、シエルの身体には力が入らない。 「はな……せ……」 ようやく絞り出された声に、ロンドベルトは陰惨な笑みで応じる。 「この状態で言葉を発したのは、貴方が初めてですよ。もう少し、お聞かせ願えませんか?」 シエルの両の手が、力なく寝台の上にだらりとたれさがる。 見開かれた双眸(そうぼう)は、虚ろに中空を見つめていた。 ※ ──……その顔だ……俺が一番嫌いな哀れみという名の自己満足……。たぶん俺も、戦場で祈ってるときは、そんな顔をしているんだろうな……── そう言い捨てる『彼』を見つめている人間は三人いた。 白銀の甲冑を身にまとったおそらくは位の高い神官騎士、そして慈悲深い面差しの高
薄暗い室内で、シエルはため息をついた。 司祭館から引き出され、駐留軍司令部内にあるこの部屋に押し込められてから、もう何日になるだろう。 室内にあるものといえば、机と椅子と寝台のみ。 明かり取りの窓から差し込む光の長さから察するに、そろそろ昼過ぎといったところだろう。 彼は再びため息をつく。 敵の手に手に落ち、挙げ句にその本拠地に連行されるとは、失態もいいところだ。 目指す『聖地』は目前であるにも関わらず、そこに行くことはできない。 あとどれくらいここにいれば、聖地に向かうことができるのか。 否、それ以前に生きてここから出られるのか、定かではない。 やはり、あそこで戻るべきではなかったのか。 けれど……。 そんな思いが、何度も脳裏に浮かんでは消える。 おそらくその答えは、決して導き出されることはないだろう。 三度ためいきをついたとき、前触れもなく重い音と同時に扉が開いた。 視線をそちらに向けると、そこにはエドナの軍神あるいは黒衣の死神と呼ばれるロンドベルト・トーループが、副官のヘラ・スンを伴って立っていた。「……一軍の将が一介の神官に何の用だ?」 機嫌悪そうに低くつぶやくその人に向き直ると、ロンドベルトは声をたてずに笑った。「ご無礼はお詫びします。しかし、それもこれも、貴方が何も語ってくれないからですよ。旅の目的はおろか、名前さえも。違いますか?」 ロンドベルトの言う通りだった。 彼の名前と身分は、所持していた通行証から判明したものであり、彼自信の口から語られた訳ではない。 まるで興味を示さないとでも言うようにそっぽを向く彼をよそに、ロンドベルトはさらに続ける。「その頑(かたく)なさがご自身の立場を危うくしている。それを貴方が一番理解しているんでしょうが……」「どう思おうと、そちらの勝手だ。俺をルウツの間者だと判断するならば、処刑するなり何なり好き
アルバート・サルコウは悩んでいた。 いや、正確に言うと、ここ数日の間に目の前で起きていることを理解できずにいた。 ことの発端は、黒衣の軍神と呼ばれるイング隊隊長ロンドベルト・トーループが、戦場から前触れもなく連行してきた敵国の神官だった。 いや、その人はただの神官と言うには明らかに異なる空気をまとっていた。 まず深淵を思わせる藍色の瞳は神官というにはあまりにも鋭い光を放っている。口数こそ少ないが、発せられる言葉はこの世界を突き放しているようでもあったが、どこか悟りの境地に達しているようでもある。 そして何よりも異質だったのは、身体中に刻まれた無数の傷である。それらはあの人が今まで歩んで来た道が尋常でない苦難の積み重ねであることを現しているようであった。 加えて身のこなしや所作にはまったく無駄がなく、神官と言うよりは武人と言ったほうがしっくりくる。 だからと言って、修練にまったく通じていないという訳ではない。動けるようになるなり司祭館の書庫にこもり教典を読みふけっていたようであるし、多くは語らない言葉の端々に『見えざる者』への信仰を強く感じさせられた。 だが、どうしても拭いきれない違和感から、アルバートは敵国の間者が巡礼中の神官を装っているのかと疑っていた。 そこで、何度か色々と鎌をかけて見たのだが、打てば響くような返答はまさしく教えに則ったものであり、その考えは誤っていたと悟った。 けれど、アルバートはまだその人にどこか引っかかるものを感じていた。 改めてアルバートはその人がこの地に訪れてからのことを思い返す。 半生半死の状態で運ばれてきたその人が、意識を取り戻して初めて口にした言葉は、まるで自分を見殺しにしてくれと言わんばかりのものだった。 治療に当たった父親いわく、その人の記憶の奥底には二つの暗示がかけられているという。 一つは記憶を封じるもので、こちらはかなりほころびかけているらしい。 もう一つは自害を禁じるもので、対象的にこちらはかなり強固なものだという。 本来、神官が他者の記憶に手を加えることは禁じられている。 にもかかわらずそれがなされているとい